【高根沢一男】


【略歴】
1969年(昭和44年)  栃木スバルにメカニックとして入社。メカニックの仕事の楽しさを覚える。
 19〜20歳のときにジムカーナーに熱中する。
 関東選手権6戦中3戦に参加し関東6位。
1974年(昭和49年)  栃木スバルを退社し、マルチ商法に1年半はまる。マルチ商法で学んだこと。
   @プラス発想 A世の中にうまい話はない B冷やめしの味
1976年(昭和51年)  日産プリンス栃木に、メカニックとして入社。メカニックの才能のなさを感じはじめる。
1977年(昭和52年)  大田原市の整備工場に、メカニックとして入社。中古車を販売するための言葉の大切さに
 目覚める。
1980年(昭和55年)  那須塩原市の整備工場に、メカニックとして入社。売掛金のムダを覚える。
1982年(昭和57年)  那須塩原市の整備工場に、メカニックとして入社。方針の大切さ、営業の大切さを感じはじめる。
1984年(昭和59年)  宇都宮市の中古車販売店に、車検セールスマンとして入社。正直な商売、社員をやる気にさせる
 ことの大切さを学ぶ。
1985年(昭和60年)  自動車業界専門コンサルタント会社に、営業社員として入社。営業のイロハを学ぶ。
 売れる講師、売れない講師を肌で感じる。会社には、戦略が必要であることを肌で感じる。
1990年(平成2年)  (有)フロントオフィスを設立。
1993年(平成5年)  「車を25年で、5000台売った男の秘密」の処女作を発行。
 モデルの元栃木マツダの田沼茂を通し、お客様に喜ばれるセールススタイルを確立する。
 本を書く大変さを味わう。
1996年(平成8年)  (有)フロントオフィスから(有)スリーベストコンサルティングに社名変更する。
1997年(平成9年)  4月に、高根沢会員月間情報第1号を発行。親睦会の席で、「先生、黙っていても先生から
 情報が来るとか、教えてもらえる方法ってありませんか?」がヒントになる。
1998年(平成10年)  4月、10冊目の著書「中古車がどんどん売れる会社の秘密」を発行。
2002年(平成14年)  商買(しょうばい)コンサルタントを名乗る。多くの人が商品を売ろうとしているために
 売れないことに気付かない。『商品は、買いやすくするから売れる。』と言うことを訴えるため
 商買(しょうばい)コンサルタントを名乗る。
2005年(平成17年)  『ダイハツがスズキを抜く日』を発行。本のタイトル通りダイハツは2007年にスズキを抜いて
 トップになる。25冊目の著書。
2006年(平成18年)  7月高根沢会員月刊情報100号。
2007年(平成19年)  12月『顧客満足度10年連続日本一の人材育成術』を発行。27冊目の著書。
 モデルは、ホンダカーズ中央神奈川(相澤賢二会長)。
2009年(平成21年)  11月『車販売・小さな会社の驚異の人材育成術』を発行。28冊目の著書。
 モデルは、(株)四輪販売福島渡邉俊之社長(専務だった渡邉俊之さんは、ある日社長からクビと
 言われた。帰る時に「これから面白くなるぞ」と思った。その考え方とは・・・)
2012年(平成24年)  3月『目からうろこが落ちる営業戦略』を発行。29冊目の著書。
 モデルは、気仙沼三菱自動車販売の千田満穂社長。地震と津波で車を失ったお客様、社員に
 「ミニカ」100台を仕入れ無償で貸出しをしている千田社長の考え方は、商売人、人間としても
 おおいに参考になると思います。
2013年(平成25年)  3月『人が育って、商品が売れるようになる本』を発行。30冊目の著書。
 30冊目の本を書くきっかけは、あるセールスマンの本を読みました。その本は10万部
 売れているというのですが、本人しか使えないセールストークが紹介されています。
 「多くの人がセールストークに困っているんだ」と分かったので、自動車業界の皆さんも
 同様と考えました。商品が売れるということは、経済効果に貢献します。
 人育て、商品が売れるヒントがたくさん本の中にあります。

高根沢一男